有名な人は写真に撮られる。その存在が社会の中でひとつのアイコンとなり、記録され、語り継がれていく。 しかし、名も知られていない普通の人にも、一人ひとりに人生がある。生まれ育った場所があり、家族があり、仕事があり、喜びや悲しみがあり、それぞれに積み重ねてきた時間がある。 私は、誰もが自分だけでなく周囲の人たちの人生に欠かせない主人公であり、誰もがひとつのアイコンなのだと思っている。 だからこそ、荒川フォトでは人を撮りたい。 単に顔や姿を記録するのではなく、その人が歩んできた人生や人柄、できることなら、その内面までも写真に写し込みたいと思っている。 写真サイトは、メディアになり得るのだろうか? 正直なところ、荒川フォトがひとつのメディアとして成立するのか、今だに分からないし、活動に対する不安感はいつもつきまとっている。 しかし、文字が人の思いや人生を伝えるメディアとして成立するのであれば、写真にも同じ可能性があるのではないだろうか。 一枚の写真から、その人の生き方を想像する。表情や眼差し、立ち姿から、その人が重ねてきた時間を感じ取る。言葉では伝えきれないものを、写真だからこそ色眼鏡なしに伝えられることもあるはず。 街を記録するのではなく、人から街を記録する。 街並みを記録した写真や地域の歴史を残すアーカイブは数多く存在する。昔の建物や商店街、道路や風景を眺めながら、かつてそこにあった暮らしを想像する。 それは、とても大切な記録だと思う。 しかし、街並みから人々の暮らしを想像するのと同じように、そこに生きる人々の姿から街の暮らしを想像することも、大切なのではないだろうか。 私が敬愛する写真家、小泉定弘先生は、街を主人公として、そこに生きる人々を撮ってこられた。 一方、私は人を主人公として、その背景にある街を撮りたいと思っている。 同じ荒川区を見つめながらも、入口が少し違うのかもしれない。 街があって人がいる。そして、人がいるからこそ街がある。 私にとって荒川区とは、建物や道路の集合体ではなく、そこに暮らし、働き、関わってきた人々の積み重ねそのものなのだと思う。 みんなの写真が集まる場所をつくりたい。 もうひとつ、荒川フォトを続ける理由がある。 それは、私たちが思っているほど、人の写真は残されていないのではないか、ということ。 今は誰もがスマートフォンを持ち、毎日のように写真を撮っている。膨大な数の写真が生まれているはずなのに、いざ誰かの写真を探そうとすると、意外なほど見つからない。 遺影に使える、その人らしい写真がない。 昔、仲間と出かけたときの、あの写真はどこにあるのだろう。 あの店のご主人は、どんな顔をしていたっけ。 あの祭りで一緒に笑った、あの人の写真をもう一度見たい。 写真は確かに撮られている。しかし、その多くは個人のスマートフォンやパソコン、アルバムの中に分散し、やがて誰にも見つけられなくなってしまう。 それならば、地域の人々の写真をひとつの場所に集め、長く残していくことはできないだろうか。 荒川フォトが、そんな**「みんなの写真置き場」**になれたらと思っている。 何年か後、何十年か後に、ふと思い出した誰かの姿を探しに来る。 そこには、懐かしいあの人の顔があるかもしれない。もう会えなくなった人の笑顔があるかもしれない。あるいは、若い頃の自分自身に出会えるかもしれない。 もちろん、写真を公開する以上、撮られる人の意思やプライバシーを尊重することは欠かせない。そのうえで、できるだけ多くの人の姿を、未来に残していきたい。 荒川フォトが目指しているのは、単なる人物写真のコレクションではない。 一人ひとりの人生を尊重し、その人が確かにこの街で生きていたという記録を積み重ねていくこと。そして、その無数の人生を通して、荒川区という街の姿を浮かび上がらせることだ。 何十年後の誰かが荒川フォトを開いたとき、そこに並ぶ人々の表情から、今の荒川区の空気や暮らし、人と人とのつながりを感じ取ってくれたら、これほど嬉しいことはない。 街の歴史は、そこに生きた人々の歴史でもある。 だから私は、今日も荒川区を歩き、人に出会い、写真を撮る。
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荒川フォトについて「荒川フォト」は、荒川区に暮らす人々の表情や営み、文化、産業、地域活動、移り変わる街並みを写真で記録し、未来へ残す非営利の地域写真アーカイブプロジェクトです。 ARCHIVE
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